予算と共に。

「初めに。」



幼い頃から引っ越しに慣れていれば、友達も直ぐに出来るタイプの私でした。

しかし、東京から現在の彦根市に3歳で帰って来れば、周りの自分と同じ年齢の子たちは字も読めず時計も分からずに途方にくれました。

それでも、いつ東京へ帰るか分かリませんでしたので、某私立有名大付属園のお受験勉強は欠かさずに続けていました。

しかし、母親が吐血し倒れたので、父は私が一人っ子だったのを寂しいと思ったのか、私を母親の親元にしばらく預けると、仕事に勤しむ人でした。



それからしばらくし、母親の持病だと分かり小学生になる頃には、引っ越した先の賃貸マンションに住んでいましたが、私は遠距離通学で、本来とは頃なる公立小中学校へ入れられてしまいました。



それでも友達は多く楽しい学校生活で、生徒数が多い大きな中学校でも学年5番以内の成績が当然でしたが、やはりこのままトップの公立高校へ進学するよりも私立高校へ進み東京へ帰ろうという思いは諦めてはいませんでした。


「転機」


そんなある日の事です。

学校の勉強では物足りずに最も難関な塾へ入らせてもらい、いつもの様に授業を受けていると左足が何もしていないのに違和感を感じ始めましたが、しばらくしていれば治るだろうと思っていた翌日の事でした。



朝になり母親が必死になり起こしに来ましたが、とても学校へ行ける状態ではないのに、それでも母親は今まで無欠席なのに、と言い起きられない私を残し仕事へ向かいました。

母親が帰宅すると、トイレに行っても一度も排尿が出来ない事を話せば、近くの有名な個人内科へ連れて行かれた先で、嘔吐してしまう私。



先生は、直ぐに紹介状を書かれると総合病院へ向かう様に言われましたので、正社員の母親もさすがに翌日休みを取り向かいました。

そこから数時間。様々な検査をするも病名が分から無いまま入院する事になりました。



そこから意識が無くなったらしく、気付いたのは真っ暗闇の中、声も出せずに指一本う置かせないのに、耳だけはハッキリと聞こえ、京大病院の医師が何名も様子を見に来ている事と、呼吸のマスクと心臓に付いている心拍数の音がなる機材が置いてある特別室だと言う事が看護師さんからの会話で知る事が出来ました。



そこからリハビリを繰り返し、私が特定疾患(難病)だと分かると、退院の予定が付くと父は岡崎市で新築注文住宅を購入したのです。


「安心出来る家」


しかし、同時にそれは私が行きたかった私立高校への進学をも諦める事でもありましたが、何度大きな災害が起ころうと、安心して過ごせる様になりましたので、お金と命のどちらを大切にするべきかと、今でも考える時があります。